私にとっては、飴すらも鞭であった。殿から飴を与えられる時は、決まって投げつけられるのだ。
勢いのついた飴は硬く、鋭く、私の皮膚に突き刺さる。
「殿。これは罰なのでしょうか」
「そうだ、これは罰だ」
馬蹄が近づいてくる。私は飴を拾い上げると、懐にしまい込んだ。
文献上は、神武天皇が大和の国を平定した際に大和高尾で水無飴を作ったという記載が日本書紀にある。また、正倉院に収蔵されている古文書に阿米という記載があり、飴を意味していると考えられているので、8世紀前半には日本で飴が作られていた事がわかる。なお、日本書紀は一種の伝説なので神武天皇の時代に飴が作られていたのかは明確ではない。明確に分かるのは、日本書紀が編纂された720年には飴が存在したという点までである。
この当時の飴はいわゆる水飴であったというのが研究者の一致した見解となっており、「阿米」という記載から伺えるように米を原料としていたと考えられている。米を原料としている点は現在の麦芽水飴と同様であるが、製法はまったく違っていたようである。米を発芽させる事で米に含まれる糖化酵素を活性化させ、澱粉質を糖化させることで飴を作っていたと推察されている。
中国語においても、砂糖で作る堅い飴や、洋風のキャンディーなどは「糖(タン tang)」と呼び、「飴(イー yi)」は、米、コウリャン、麦芽などから作る水飴や軟らかい飴を指すという区別がある。
なお、現在の飴はもっぱら菓子として食べられているが、当時は甘味料として用いられていたようである。また、甘い食品が貴重であった事から薬や珍味の様なあつかいもされていたようである。